写真的とは写真的ではないこと?

「Singularité」,「énigme」,「extrême originalité」,「不思議な」、「奇妙な」、「謎めいた」、等々、これらが展覧会を行うたびに私の作品について語られる言葉だ。それは日本でも、フランス、アメリカ、中国その他どこでもだいたい似たような言葉が並べられる。

もちろん、私は意識的に奇妙な作品を作っているのではない。おそらくその奇妙さというのは視覚的な点についてだけではなく、写真に対する私のアプローチとその写真の扱い方に対する複雑な抵抗感、これらがないまぜになり結果的に「奇妙な」という言葉が作品に向かって発せられるのだろう。

現在、写真やビデオなどによるイメージは私たちの世界そのものになっている。私たちは毎日膨大な量のイメージに取り巻かれている。イメージがものすごいスピードで目の前を通り過ぎる。ときには自分の傍らにため込まれたイメージが、知り合いや不特定多数の人々に投げつけられる。そしてこれらのイメージは私達の記憶や経験を圧倒し惑わせている。にもかかわらず、これらはまるで空気を吸い込む様に自然体で行われているのだ。

しかし、ここで私は写真が発明されて間もない頃を想像してみたい。カメラという光学器械で目の前の現象を平坦に定着させる、または自分の姿を写真を介して眺める。こんな行為は極めて奇妙な経験ではなかったか? この最初の「奇妙さ」とは何なのかを探求することも私が写真にこだわる理由のひとつである。
カメラの中の空洞にガラス玉を入れて群衆を撮影し、外界の現象のみならずカメラの存在そのものにも意識を向けさせたシリーズ『How to make a Pearl』。場所のリアリティーを記録するという写真的な行為をあえて切り落とし、土地の名前だけに集点を当て、さらには撮影行為の主体である写真家の自己意識とその存在をも否定した『Roma_Roma』シリーズ。隠しカメラで不特定人物を撮影し、フォトグラムの手法で肝心要の顔を隠してしまい肖像と肖像権への問いをも浮上させた『Eleventh Finger』シリーズ。その他多くの作品でも、私は制作の過程で色々な仕掛けを設け、私たちがよく知っている「写真」というメディアの見慣れない顔が現れることを試みている。

そして私はいま「はたして私たちは写真の発明以前の世界まで遡ることができるか? そんな事件を写真というメディアを使いながら現出させることが出来るだろか?」という、ちょっとSF小説家じみたことに興味をもっている。


オノデラユキ 2013年11月11日

INALCO国際シンポジウム「規範に抗して— 現代日本における独自性の礼讃」から
2013年12月19日—20日

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Paris