身体を得た影たち — オノデラユキの作品

エヴァンス・ヴェルディエ Evence Verdier

「夜が壁のように厚みを増して行くのだった」
「露台」シャルル・ボードレール『悪の華』より(安藤元雄訳)


呼吸する空気のようにイメージが存在することをオノデラユキは忘れない。我々は気がつかないうちにイメージを消費している。イメージはいたるところにある。我々を取り囲むもののうちに、そして同時に我々自身のうちに。というのも、我々はイメージを介して、そのままでは存在しない現実にアクセスしているからだ。知覚し、解釈することによって、我々は可能世界を作り上げ、それに実体を与える。イメージはその接点であると同時にシミュレーションであるからこそ、オノデラユキは、そこに賭けられているものについて思考を重ね、そのイメージを映しだし、影と反射の綾目もつかない世界を呼び出しているのだ。


彼女の仕事が造型作品としてのオリジナリティーを持つことは言わずもがなだが、それでも、ジャック・ランシエールがイメージの「表象制度」と呼ぶところでの類似を、彼女の写真と他の写真家の作品との間に見いだすことはできる。「古着のポートレイト」(1994ー97)シリーズと、アダム・フスの「My Ghost / dress 」(2000)で現れるのは同じ類の着衣の幽霊だろうし、日本人の写真家後藤敬一郎が1930年代に撮った写真では、谷間にぼおっと立っているかのように見える服が写っている。[1]また、「C.V.N.I」(1998)で現れる空飛ぶ缶詰めと、やはり後藤敬一郎の別の写真[2]で、曇り空を背景にして、山上に浮かぶ星のように切り口を真っ正面に撮られている木の切り株とは、同類の未確認飛行物体なのだろう。だがこの種の「比較写真」的分析は、形態の歴史を文脈に一層強く結びつけ、主題やジャンルの優越性を維持してしまうことによって、オノデラユキの作品に特有のあり方を理解することから目を逸らせてしまう。つまり、彼女の作品は、ランシエールが芸術の「表象制度」と呼ぶ、「芸術を、生の自立した形態とする[3]」点において機能しているのだ、ということを。

同様に、谷崎潤一郎の『陰影礼賛』や、川端康成の明暗法的作品から出来上がっているような作品を例にとって彼女の白黒写真の世界を分析することが可能だとして、それもまた文化主義的な考察だということになってしまうだろう。オノデラユキの作品は、ある文化が読み解けるようにと記号とイメージを組み立てることで出来ているのではなく、鏡の向こう側を知覚する助けになるように「記号とイメージの具体的な再構成[4]」を行うのだ。鏡の向こう側といっても、まやかしや見せかけを知覚するのではなく、知性の働きを通してのみ理解できるような形態、通常とは別の仕方で「見えるものと表現できるものの間の軌道[5]」を考える可能性を見るのである。


オノデラユキは我々に、物事を、我々が決して見たことのないようなものとして、またはそんな風には見ようとしたことがないものとして見せてくれる。「関節に気をつけろ!」(2004)シリーズでは、サッカー試合の映像から幾つかのイメージを取り出し、それらに写真的な身体という物質性を与えている。それに加えて文脈を取り除くという作業がある。顔から個性を消し、ユニフォームの(番号や名前)を消し、広告を消し、スポーツ写真の構成言語を全般に消すことによって、彼女自身も言うように、「純粋な身体の動き」だけが残ることになるのだ。写真の対象から文脈を取り去り、イメージの中に、二重に分離していくという概念のような曖昧さを抱えることによって、彼女は物語を表象の縁にとどめておこうとする。イメージに何ほどかの異質さを与えることで、サッカー選手たちはどこか亡霊めいた様相を帯びる。ある写真では、選手達はボールには関心を示していず、別の写真では足やボールが多すぎるし、また他の写真ではボールは全くないときている。このイメージはいわゆる「オリジナルの概念に再考を促す複製[6]」である。イメージは「不均質に混ざり合う時間性が同時に存在[7]」する場所となり、鑑賞者にある作業、急を要する行程を要求し、そのようにして現実への新しい通路を開くのである。そして、亡霊のように分かたれたものに出会うのは、まさにオブジェとしての印画紙上でなのだ。


オノデラユキは、作品を情動や感傷で重くしないようにしている。自己表現が目的なのではない。この作家が行っているのは、ただ、現実を穿刺し記録することだけだ。彼女は、プリペアド・ピアノの発明者であるジョン・ケージに倣って、「プリペアド」写真を制作している。楽器の弦の間にいろいろな物を置いて音色を変えていたこのアーティストのように、オノデラユキは、「真珠の作り方」(2000ー01)シリーズにおいて、カメラ本体にビー玉をいれ、底でそれを転がしたまま群衆を撮影する。現像の際に、ビー玉はある種の輝く天体の様にしてイメージの上方に現れる。写真という機械の重量を僅かばかり増すことによって、現実の重みを少しだけ軽くするかのように。ここでは、現実との距離を取ることが問われていて、多くの写真が、ユーモアもたたえつつ、浮かぶもの、飛ぶもの、重力のないものに対するこの作家の際だった好みを表している。さらに、イメージが単なる情報になってしまわないように、イメージもまた「遊離」しているかのように、技術的な次元での細工、作業が施される(移植、コラージュ、二重露光やその他様々な工夫)。写真一枚一枚が、この変形の結果であり、情報回路の中に組み込まれる意図的なずれである。「P.N.I.」(1998ー99)と「Transvest」(2002ー03)シリーズは、雑誌の切り抜きを加工して出来上がっている。「液体とテレビと昆虫と」(2002)や「関節に気をつけろ!」は、テレビ映像に処理を施して出来上がったものである。メディアから抽出されたデータを素材にするにせよ、彼女自身が対象を撮影するにせよ、オノデラユキは、固定したイメージの中に動きの可能性を組み入れ、対象よりもむしろ出来事を捉えようとする。そして、様々な操作を通し、硬直したものから生き生きとしたものへと変化することができるようなイメージの性質を問い直そうとする。その意味では、「鳥」のシリーズは鳥を表象するのではなく、四方に飛び交う羽ばたきそのものを表している。また、「P.N.I.」(未確認肖像)のゆがんだ顔一つ一つが、雑誌から切り抜かれた、見知らぬ人の鼻や口や目を配置し直すことによって作られ、鑑賞者に、顔だちを再構成し正常化するための時間を取るよう強いている。焦点をはずしている(「芸術的な」効果を狙ってではなく!)お陰で、これらの顔の持ちうる奇怪さを乗り越え、顔立ちを復元させることができる。そのように、イメージを時間の可能性の中に置くことによって、オノデラユキは顔の中にある、とらえどころのない性質を見させてくれるのだ。「Roma-Roma」(2004)シリーズでは、この距離は、スウェーデンのローマからスペインのローマへの移動という形を取って現れる。写真を撮るために移動するのではなく、移動するために写真を撮るのであり、その時彼女の身体自体がカメラそのものになるのだ、と彼女ははっきりと言っている。


「シャッターチャンス」を撮ろうとすることから遠く離れ、オノデラユキは目に見えるものを精察し、物事の厚みを捉えることで、別次元の現実に達しようとする。情報の洪水に流されてしまうのではなく、その洪水をすっぱりと断裁する。まるで、よりよく世界を理解するには、全体を視野に収めようとするのではなく、実験室の研究者さながらに、サンプルを抽出し、一つ一つ分離し、検査や実験にかけ、触媒を通さなければならない、とでもいうように。彼女はまず最初に撮影のための様々な仕掛けや演出の構想をじっくり練ってから、そこで始めて制作にとりかかる。ここでは、「感覚でとらえ得るものは、ありきたりな連関から逃れて、異質な力にとりつかれてしまう。思考それ自体にとっても異質になってしまった思考の力。造らないことに等しい制作物、非知に変換された知・・・・・・[8]」オノデラユキは作品の中に一義的ではない要素を導入する。作品自体が現実の方に従うように。だから、写真の身体性にこれほどの重要性が与えられるのも不思議なことではない。現像の際、通常とは違った工程を採ることで、例えば「真珠の作り方」シリーズのように、イメージの表面に有機的なテクスチャーが現れる。多数の小さく不規則な円形がお互いにくっつきあい、表皮細胞にも似た印象を与えている。イメージは皮膚であり、スクリーンだ。単なるイメージではなく物質を作り上げること、単に世界の反射を捉えるのではなく世界に何事かを付け加えることに重要性がおかれている。自然を模倣するのではなく、自然がするように事を行うこと。


同じ作業を、「液体とテレビと昆虫と」シリーズに現れる、昆虫の「忠実ならぬ」影に見ることが出来る。それは水たまりのようにも見え、影を落としているはずの対象の姿とは合致していない。輪郭が重ならないだけではなく、テクスチャーも異なっている。このようにして、彼女は新しい「見えるものと見えないものの分配」を探り、感覚で捉えられるものを大幅に変形させることに貢献している。まやかしを差し出すのではなく、知覚によってのみ認識しうる構造を提案するのだ。そうして表象の地位は不確かになる。ローマン・ヤーコブソンが書いているように、「指示機能に対する詩的機能の優位は、指示(外示)を消すのではなく、曖昧にする[9]」。対象(昆虫)とその分身(液体の染み)の関係はあまりにも曖昧なので、イメージは物体を映し出すのではなく、物体そのものになる[10]。この奇妙な分身なしには昆虫を知覚するのが不可能な限りは、また、この分身が、影を投げかける物に直接関わっている限りは、イメージは物体として存在する。影は物の存在を証明しているというより、物としてのイメージの実体を証明しているのである。

しかしもっと驚くべきなのは、これらの昆虫の影が、時折その下に影自らの影をたたえていることである(テントウムシがそうだ)。また、影の表面はあまりにも見事に光を捉えているので、その表面自体に見える陰影は昆虫自身の影を写しているのかと思ってしまう。相撲取りのような姿勢をとったテントウムシの、水たまりのような影の上に描かれる薄暗い線は、テントウムシのV字をした足の反射でありえはしないだろうか?また、この写真家は擬態のような光も捉えている。テントウムシの背にある4つの小さな丸い染みのような反射光は、テントウムシの黒点と競い合っているかのように対比をなしている。そのような要素全ては現実感を与えることをねらって配置されているかのように見えるが、それでいて、自らの影の影の上にいるところを捉えられた軽業師にも似て、その全体は、まるで均一に灰色の紙の真ん中に置かれたインクの染みのようにも見える。例えば、蟻の体に細い線が走っていて(このイメージがテレビから取られている徴だ)、支持体には走査線が張られる。

毎回、何らかの方法で、鑑賞者の視線は表象されるもののリアルな形象からは離れ、異質な影に馴染み、その全体を紙が産んだ亡霊として考えるように仕向けられている。イメージ自身が、視点の動きに支えられたプロセスの隠喩となる。オノデラユキはイメージを予め「構成」し、写真の持つ幻影の力を明らかにしている。この作家は鑑賞者をイメージの表面から深みへと導く。一つ一つのイメージは、現実を受け入れる、非現実的で多様性を持つ構成物である。諸要素はあらかじめ写真に撮られ(昆虫とガラス板上の液体は別々に撮影されている)、また別の要素と結びつけられ、このようにして、我々は、素材や空間、時間の増殖に立ち会うことになるのだ。


この現象は、特に「Transvest」シリーズに現れる。ここでは制作の様々な時間がイメージの表面に凝縮している。中心のモデルー雑誌から切り抜かれ、逆光で撮られている人物ーの中に、全く異なった無数のイメージを入れ込むという手法をこの作家は採っているので、ひとつひとつの典型的な人物像(『アリスの不思議な国』を思わせる雰囲気の少女や、タップダンサー、ダイバーなど)が、鑑賞者にとっては、綿密な聴診、様々な形象を通じて謎めいた接近をする機会となる。それぞれのシルエットは、彼らを取り巻く世界を磁石で引き寄せ、捕らえ、自らの内に取り込んでしまったかのようだ。まるで世界全体がそこにからみつきにやって来たかのように。逆光のシルエットは、マレーヴィチの黒い正方形のように、全ての可能なものが集まる場所として現れ、生きる全てのもの同様、底なしの神秘を体現している。もしかしたら、このイメージを一つの扉として捉え、一つ一つの人物像を鍵穴として、それを通してもう一方の側を覗くことが可能になる、そんな風に考えた方が良いのかも知れない。それはまるで、カメラに目をくっつける作家の姿勢そのものであり、混沌とした状態、我々の通常の知覚からずれたイメージを抽出しようとしているのである。あるものが反映するとき、それは既に別のものであると我々に知らせているイメージ群。例えば、「ミツバチー鏡」シリーズが好例だが、ここでは写真は光沢のあるワニスの厚い層に覆われ、象徴的な鏡に変容を遂げている。プラトンいうところの、洞窟に鎖で繋がれた囚人達のように、我々は影を本物の人物と混同してしまう。しかしながら、この作家はプラトンのアレゴリーのようには、我々の視線をイデアの世界に向けて上げさせるわけではない。彼女にとって下方にあるもの(感覚で捉えうる現実)は、上方、知的な高みから来るものの反射(幻影でありぼかされたもの)ではない。反対に、超越性のシェーマとは逆向きに、イメージの深みに降り、イメージを構成している影の厚みを通り抜けよるようと、この作家は我々に提案しているのだ。

また、それら不透明の人物は反射面上で撮られ、イメージの下方に、自らの薄暗い反射を描き出している。ここに並行世界が現れる。黒く反転した形象に満ちて、我々自身が、イメージの周りをうろついている亡霊か影でもあるかのように思わせるのだ。逆光で撮影された人物の後ろに光源が隠されているので、人物に影を落とす影は、論理的にはイメージの前に来て、鑑賞者を覆わなければならないはずだ。この装置の中で、我々はイメージの影になり、そして、現実は、それについて「考えるために仮想され[11]」、今や分身のように現れるのだ。


こんなふうに、オノデラユキの作品は、対象を変形して映す鏡であり、現実世界ともう一つの世界との間にある多孔質の境界である(カメラという機械はそれに最も適った隠喩だろう)。「ZOO」(2000)シリーズでは、イメージは黒いスクリーンであり、その真ん中に惑星のような動物の目が穿たれている。そして、その動物は我々を見つめているのだ。その時、イメージは動物園で動物と我々を隔てている檻にも似る。我々が動物を眺めているとき、私たちが動物を本当の意味で見て、理解しているかどうかは定かではない。私たちの視線も、ビー玉のように透明なのかもしれない。ビー玉と動物の目を二重露光で撮ることで、動物の目を閉じこめてしまったビー玉のように。また、「真珠の作り方」シリーズの中で、カメラの中に入れ込んだビー玉のように。彼女のイメージは、貝の中の真珠にならって、身体の中に異物を入れ込むことによって生まれる。しかし、作家の意見に従い、カメラの中にビー玉を入れることは目を入れるようなものだと考えるならば、そのことは、カメラが視線に関する仕事と密接に結びついている身体だとみなすだけではなく、苦労の価値ある、貴重な、貴石のようなイメージが造られている宝石箱だとみなすことにもなるだろう。現実を考え直すきっかけとなるイメージ。この生が自ら形をなすような形象と芸術の形象を一致させていくことが、[12]オノデラユキの作品の根幹を構成しているのだ。

オノデラユキ展カタログ(2005)、国立国際美術館、大阪
翻訳 関口涼子


  1. 『日本近代写真の成立と展開』東京都写真美術館展覧会カタログ(東京、1995年)109頁。
  2. 同上、110頁。
  3. Jacques Rancière, Le partage du sensible(esthétique et politique), la fabrique-éditions, Paris, 2000, p.37
  4. Ibidem, p.62.
  5. Ibid., p. 29.
  6. Ibid., p.37.
  7. Ibid., p.25.
  8. Ibid., p.25.
  9. Roman Jakobson, Essais de linguistique générale, éd.de Minuit, Paris 1963, p.238
  10. Clément Rosset, Impressions fugitives(L’ombre, le reflet, l’écho), éd. de Minuit, Paris 2004, p.11
  11. Jacques Rancière, ibid., p.61.
  12. Ibid., p.33.
     

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