インタビュー 飯沢耕太郎 写真年鑑 2011

聞き手:飯沢耕太郎
構成:市井康延


最初は抽象表現に向かった

飯沢:いろいろ感慨深いというか、こういうじで20年後に話ができるなんて。
オノデラ:最初は1991年でしたか。第1回の写真新世紀展は。私も飯沢耕太郎という名前が審査員の中に入っていたので、応募させていただいたんです。
飯沢:そんなことないでしょう(笑)。
オノデラ:本当にそうなんです。南條さん(美術評論家、現・森美術館館長)もその時はかなり特殊な仕事をされていたから。
飯沢:写真の世界では、それほど有名ではなかったけど、現代美術ではこれからという立場だった。国際交流基金を辞められて、フリーで南條事務所を作った頃なんで。写真の世界が変わってきて、ドキュメンタリー、スナップショット系以外の写真が出始めてきて、発表の仕方も印刷物でなく、展示する人がかなり現れてきて、そういう写真をどうフォローするかが大事だった。それまでに応募したことはなかったの?
オノデラ:ないです。写真新世紀は表現形態、大きさも自由だったのと、審査員の顔ぶれが面白いので、あまり深く考えずに応募してみたんです。
飯沢:応募した『君が走っているのだ。僕はダンボの耳で待つ』は、写真の作品としては最初のものだったの?

オノデラ:実はその前にもいろいろありますが、出していません。最初の頃、ライカM3を使っていて、街のスナップというか、オブジェを撮ったりしていました。風景でも、人でもない。ロバート・ラウンシェンバーグも、どうでもいいものを撮っているんですよね。
飯沢:ああ、ゴミみたいなものをね。モノクロの。
オノデラ:割と初期の頃にそういうのを見て、こういうのもありですねって。ふらふら歩いて撮っていると、何かを探し回るようになるじゃないですか。そこで壁に当たった。
飯沢:写真のために写真を撮るみたいなね。この間、森村泰昌さんと話した時、まったく同じことを言っていた。
オノデラ:森村さんもですか。
飯沢:まず京都の路地裏、裏口みたいなところを撮っていたら、そのうち汚いものばかりを探し回って、暴き立てるような撮り方が嫌になった。そこで自分を被写体にすればいいと気づいた。
オノデラ:私の場合は、外を探し回るのを止めて、自分で撮るものを作ってしまえばいいんだと思ったんです。
飯沢:森村さんも『卓上のバルコネグロ』は、テーブルに自分でいろいろなものを置いて撮っている。二人はすごく似てますね。
オノデラ:オブジェ並べたり、自分で作ったものを一緒にしたりするうちにどんどん抽象的になっていった。最後はマクロレンズで、プラスチックを溶かして、そこに色付けをしたりした。カメラでしか押さえられない映像ではあると思いますが、抽象過ぎて写真でやる意味がないというところまで行ってしまった。それで最初に戻ろうと、撮ったモチーフが椅子でした。最初はカラーでしたが、モノクロに変えてからはダンボのシリーズとか、お化けに自分がなったり、今の作品に近い形になっていった。
飯沢:写真新世紀の時は、僕も最初から気づいてはいたんだけど、もう一つ地味だった。それを南條さんがよく発見したよね。彼の眼の良いところだなと思う。

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Paris