移動するカメラ

オノデラユキ

アントニオーニの「Profession : reporter」という映画のラストシーンは印象的だ。随分前に見たのでストーリーの方は半ばぼやけてしまったが、異国をさまよう主人公が旅先の粗末な部屋で息を引き取るシーンなのである。
彼は小さな村の安宿のベッドにいる。映像の動きは撮影しているカメラを意識せずにはいられない他者の視線だ。そのカメラはゆっくりと部屋に入り、部屋の雰囲気を映す。横たわる主人公。窓から差し込む光は明るく、そして白い。まだ太陽が高い位置にあるような時間とわかる。外からは子供の遊び声が小さく響くように聞こえてきて、その音がいっそう静けさを生み出す白昼夢の時間帯である。なめらかに移動する視線はベットで寝ている主人公を通り越し、ゆっくりと、外の空気が流れ込む明るい窓の方へ向かう。子供の声がいっそう大きく聞こえるように感じる。さらに窓に近づき窓枠が画面になる。その窓には、マグレブで見かけたようなアラブ風の鉄柵がついていて、その鉄柵越しに白昼の広場が見える。少し離れたところで主人公の道連れが道端に立ち、何かしている。さらにその視線はずんずんと窓の柵に近付き、そして驚いたことに、ある瞬間、映像はその狭い柵の間をスパッとすり抜け、そのまま外へ出てしまう。それからさも自然に、そのまま熱せられた屋外の映像へとなめらかに続いてくのだ。
ベットに寝る主人公の死の瞬間を表すこの映像表現。肉体的に通り抜けるのは不可能な境界線を、カメラによって当たり前のように飛び越える。もちろんカメラという物体も当然この鉄柵の間は通れないはずだから、こちらの視線には妙な不安さと痛みのようなものも感じるのだが、なによりも、ひとつ越えたような解放感が生まれる鮮やかな瞬間だった。

肉体的には越えられない境界をカメラが越えていくことで、私たちの身体感覚が大きくゆり動かされることがある。空中写真などもそのひとつだ。空から撮影された真下に広がる町の風景、自然の風景。これらの写真は私たちが飛行機に乗ったときに小さな窓から覗く眼下の風景とは違う。平らになった俯瞰写真をじっと見ていると、私たちの体も紙っぺらとなり、地面に対し平行にうつぶせの格好で、ただ普通に目の前を見ているような感覚を覚えないだろうか。カメラの視覚は私たちの視覚と密接に結びついているから、そんな心地よい異変やイリュージョンも、また身体のひとつの可能性なのだろう。

しかしイリュージョンでもなく、トリックでもなく、身体が身体感覚を越えてしまっているような現実もある。それは乗り物に乗って他の場所に移動するときだ。速度が増すと、この時いったい何が起こっているのかよくわからなくなる。この体験を視覚化するのは難しい。新作Roma-Romaではこの移動という行為を、二つの場所の距離と名前に託すことによって視覚化させようとした。いつからだろう、私たちは移動のスピードに慣れてしまったので、観光写真はただのメモのようなイメージとなってしまった。光に打ち震え静かにそこに佇む異国のモニュメントを撮影したかつての「写真」。古代スフィンクスの下に集まる日本の侍たちの写真(アントニオ・ベアト1864撮影)は「写真」の驚異だ。そこには距離と時間と光が素直に凝縮されている。

スピードといえば、シャッタースピードも早くなった。常に身構えて撮影されていた、モデルの人格と時間さえも内包するような肖像写真も、こうなるといつでも撮れるスナップのように使い捨てのイメージだ。 肖像写真を撮り続けてきたパリはモンマルトルの古い写真館。上品な老婦人が、自分の猫の普通のカラー写真をそこ持ち込み、この子の目をブルーにしてくださいと注文していた。これには驚いた。今でこそ写真はコンピュータで加工されるものかもしれないが、こんな小さな紙焼きのプリントまで当然のように自分の理想のものに作り替えてしまう。異国での写真文化の違いは興味深かった。フォトグラフを直訳すれば「光術」あるいは「光描」であって「写真」ではない。二つの異なる国を移動しつつ、写真のように騙し騙されながら制作を続けることで、これからもカメラが身体の限界を越えていく機会にちょくちょく出会えるかもしれない。(2004/12/24 Paris)


国立国際美術館ニュース/2005年2月 No.146/国立国際美術館、p.4

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Paris