写真はどのような知覚か。

オノデラユキ作品集に寄せて


1

知覚は、知覚自身を超えて行こうとする一種の努力である。この努力は、まったく生活上のものとして為されている。実際、私は今自分が見ているこの壺が、ただ網膜に映っているだけのものだとは決して考えない。私からは見えない側にある、この壺の張りも丸みも色さえも、私は見ようとしているし、実際見ていると言ってよい。見えるものを見るとは、もともとそうした努力なのだ。なるほど、その努力には、いろいろな記憶や一般観念がいつもしきりと援助を送ってくれるから、人は一体どこで見ることが終わり、どこから予測や思考が始まるのか、はっきりとは言うことができなくなっている。けれども、見ることが、純粋な網膜上の過程で終わり、後には純粋な知性の解釈が付け加わるだけだと思うのは、行き過ぎた主知主義である。

主知主義の哲学者たちは、精神による知覚の解釈こそ重要なのだと主張した。知覚の誤謬を救うものは悟性しかないと。日本で一頃はやりの映画批評は、視えるものの表層に踏みとどまることこそが重要だ、映画を視る眼に必要な態度だと主張していた。これはある点までもっともな言い分だが、これも行き過ぎれば主知主義のシニカルな裏返しでしかなくなるだろう。視えるとは何なのか。たとえば、モネのような画家はこの問題を突き詰めて、恐ろしく遠くにまで行った。光がなければ物が視えないと人は言うが、視えているのは物ではない、刻々に変化する光の分散そのものである。あとは頭脳の操作に過ぎないではないか。むろん、こういうモネの懐疑主義と、彼の手が描いた積み藁の美しさとはまた別ものだろう。彼は視ただけではない、視えていると信じたものを描いたのだ。当然ながら、描くことは視ることを大きく超えていく、あるいは超えて行こうとする大きな努力となるほかない。

メルロ=ポンティの知覚の現象学は、視えることが〈意味〉に向かい続ける身体の志向性と切り離しては決して成り立たないことを実に巧みに語っていた。W・ジェームズやJ・ギブソンの心理学にあるのも結局は同じ考え方だと言ってよい。私は自分が登っている丘の向こうに見える一軒家が、一枚の板のように立っているとは思いはしない。家の正面はわずかに見えてくる側面と見えないあちら側との連続的な係わりによってこそ正面でありうる。歩きながら、私はそういう全体を想像したり知的に構成したりするのではない、丘を見上げながら坂道を行く私の身体の上に、家はそうした全体として否応なくその奥行きを、〈意味〉を顕わしてくるのである。家を見上げることは、歩いている私の身体がこの坂道を延びていき、家の表面を包んでその内側を作り出す流体のようになることである。流体とは、私の身体がこの家に対して持つ止めどない行動可能性にほかならない。

19世紀後半から人類史に登場してきた写真、そして映画は、見ることについての長い人類の経験に極めて深い動揺を与えた。むろん、この事実に敏感に応じた者も、そうでなかった者もいる。けれども、動揺は測り知れず深かったと言えるのだ。機械が物を見る、それは一体どういうことなのか。肉も神経系もなく、行動も努力もしない機械が物を見る時、何が起こってくるのか。これは単なるレトリックではない。実際、リュミエール兄弟たちが開発した感光板「エチケット・ブルー」によって驚くべきスナップ写真が生まれてきた時、人はそれまで決して見たことのなかった世界の切断面、たとえばバケツから飛び出して無数の形に光る水を見たのである。それは身体が知覚するあの液体だとか固体だとかではない、何かもっと別なもの、しかもこの世界の内に確実に在るものだった。

いや、スナップ写真でなくともよい。写真機が一秒の何千分の一というようなシャッタースピードを持つに至れば、肖像写真は静止した人の顔を決して私たちが見るようには顕わさない。写真機で撮ったあらゆる顔は、どこかしら妙なものである。職業的な写真家やモデルは、そこのところをよく心得ていて、その妙なところを消す技術を持っている。けれども、それはうわべのごまかしに過ぎない。顔は刻々に動き、変化している。変化は無数のニュアンスを持ち、ニュアンスのニュアンスを持ち、静止の瞬間など一切ない。私たちの日常の視覚は、そこに相対的なさまざまの静止を持ち込む。それが、生活の要求だから。従って、私たちのしかじかの身体が、その顔に向かって働きかけるのに必要な分だけの静止がそこにはある。写真という知覚機械が示す切断はそんなものではない。この切断は何のためでもなく為され、しかもそれは私たちの視覚が世界に挿し込む静止と較べれば桁外れの速さで為される。

写真のこの非中枢的な切断は、私たちに何を見させるだろうか。持続し、限りなく変化しているこの世界の、言わば変化のニュアンスそれ自体を引きずり出し、一点に凝結させ、見させる。おそらく、そう言ってよい。私たちの肉眼は、こんな一点を見たことはない、しかし、持続におけるその二ュアンスは経験している。生活上の意識がそれを次々と闇に葬るだけだ。写真は無意識の闇にあったそのニュアンスを、ただ一点に凝結させ、実に単純な視覚の事実にしてしまう。これは、恐ろしい事実である。


2

写真がこのような知覚機械であるとすれば、その知覚が知覚自身を超えていく努力だなどとは考えることができない。努力するものは、生命、身体であって機械ではない。至極当然に、写真家は自分の機械に代わって努力しようとする。何でもでたらめにパチパチやって写真家でいられる者はいない。問題は、それが何のために為される努力かなのだ。非中枢的なこの知覚機械を自分の肉眼として飼い馴らす努力なのか。多くの写真家は、そのためのさまざまな技術を身につけている。だが、これとはまさに対極のやり方がある。写真機の知覚が、知覚それ自身を超えて行く努力であるような、そんな事態を写真機に対して引き起こさせるやり方がある。このやり方は、論理的には不可能であるように思える。だが、オノデラユキの写真は、それがある意味で可能なことを示している。

たとえば、彼女は写真機のなかにガラス玉を入れ込む。写真機とは、外界から来る光の制限によってフィルム上にイマージュを引き起こす機械である。この制限はまったく何のためでもなく、ただ光それ自身の一種の縮減として起こる。しかし、機械のなかに放り込まれてカラカラ鳴るガラス玉は、この機械の内部に言わばもうひとつの光源をもたらす。機械の〈内なる光〉、暗箱で発する光それ自体のイマージュ、それがフィルム上に焼き付けられる。が、それだけではない。光のイマージュそれ自体となったガラス玉は、外部から来る光の制限によって生じた群集のイマージュと共存している(『真珠のつくり方』)。機械の〈内なる光〉は、あたかもこの群集の頭上から、彼ら一人一人を照らし出す光源であるかのように存在する。この光源は、決して月にも電灯にも見えない。群集を知覚しようとする機械の、冷たい魂のように浮かんでいる。

機械には本来群集を知覚しようとする意図などはない。意図を持つのは、写真家だけである。けれども、写真機の知覚は、人間があらかじめ持ちうるあれこれの意図をいつもあっさりと超えてしまい、奇妙な圧倒的なイマージュの充満を私たちに投げ返す。オノデラユキは、写真家の意図などというものが写真そのものから愚弄されることをよく知っている。写真機が知覚する群集は、私たちがそのなかにいて感じる熱気も活力も疲労もけだるさも欠いている。欠いているのが、ほんとうなのだ。そうしたものは、生きた中枢的身体の諸関係のなかでだけ発生してくる。だが、この欠落は貧困とはまったく関係がないだろう。むしろ、熱気、活力、疲労、けだるさが覆い隠すすべてのものが、ここでは顕わになってそのまま在る。ここでは、群集とは名前を持たない身体のさまざまな開放であり、開放の複雑な方向である。機械の〈内なる光〉のもとで開放される彼らの身体が、社会を、歴史を、言葉を溶かして、流れ出る。

都市の群集が、こうしたものとして在ること、在りうることを実は私たちは知っている。いやそれを見たことがある。ただし、その知覚は、生きることに専念している私たちの意識の上にはほとんど決して引き出されてこない。写真機による非中枢的な光の制限、機械による世界の一瞬の切断が、私たちにその無意識を覗かせてくれる。精神分析が感情の無意識について行なうところを、写真は視覚の無意識について行なう、とベンヤミンは言っていた(「写真小史」)。けれども、写真家にとって重要なものは、たぶんこの無意識ではあるまい。意識と無関係に、この世界が在ること、それ自体であろう。写真機による知覚は、そのことに達するであろうか。達するとも言え、達しないとも言える。写真は、それが世界の非中枢的な一瞬の切断だという意味では、私たちの知覚を超えてこの世界の物質的な真実とも言いうるところに達する。だが、この世界が在ることの〈意味〉についてはどうか。そうした〈意味〉が、ひたすら物質的な真実だけによって示されることがあるだろうか。おそらくはないと言える。写真機による知覚が、その知覚を超える努力そのものであることが求められるのは、この場合である。

オノデラユキが写真機の構造について、被写体や焼付けの過程について入念に付け加える種々の〈何か〉は、そうした〈意味〉に達するための努力として必要となってくる。この努力は彼女がするのではなく、写真機みずからが行なう。それはあり得ないことだと、人は言うだろう。では、努力は彼女がするのだとしてみよう、それでもその努力を写真機の内側に移植するかのように、非中枢的に作り出すことはできる。写真機の〈内なる光〉は、そのようにして作り出される。


3

ヨーロッパの認識哲学が、意識の〈内なる光〉という前提から出発していることは言うまでもない。認識主体とは外部の闇に放たれるこの光であり、対象は光をうけてその外形を浮かび上がらせる。こうして意識の照明によって対象化されたものは、もはや物そのものではない。意識が作り出した意識の対象物である。写真や映画の出現は、こうした考えを極めて深い場所から揺さぶったに違いない。機械が知覚する、という事態が端的に人類に教えたことは、光は外に在るということだ。事物が意識の光を受けるどころか、事物は光であり、光を放つものは事物である。キャメラがそれを遮り、制限し、光を特定のイマージュに変える。意識がすることも、これと同じではないか。キャメラが意識に似た知覚装置なのではなく、意識のほうこそがキャメラに似た光の制限装置なのではないか。ベルクソンの哲学には、はっきりとこの考え方がある。それは、写真の出現と決して無関係なことではない。ただし、生命とともに出現したこの意識は、みずから行動する中枢的な身体を持っている。自己の身体を中心とした行動の遠近法を持っている。意識は外部の闇を照らす〈内なる光〉である、という古い哲学的感情は、この遠近法から派生したものに過ぎない。ベルクソンはそう考えた。

だとすれば、写真機が〈内なる光〉を手に入れようとすることには、二段階のパラドックスがあることになる。写真機には、まず中枢的な身体がなく、次にその身体が人間にもたらす一種の錯覚、意識を〈内なる光〉とする哲学的錯覚もない。オノデラユキはこの二重の不在をとおして写真機の〈内なる光〉を、たとえばフラッシュによって現実化しようとしている。『カメラ』と題された彼女の作品では、被写体は暗がりのなかにあって光を撥ね返す写真機そのものであり、同時にその写真機が制限しようとする外部の光である。だが、これを撮る光はどこにあるのか? これを撮る写真機の〈内なる光〉以外のところにはないように思えてくる。写真機を見ようとする写真機それ自体の努力が、このようにして映し出される。その努力は、私たちの中枢的な身体や意識のそれにはまったく似ていないが、そこには見ることを超えて見ることへの、強い不思議な祈願が感じられる。祈願しているものは写真機なのか? そうだと言ってもよい。しかし、もしそうだとすれば、写真機とは一体何なのか。

写真機とは、もちろんひとつの事物である。事物であるものは、光を放つ。写真機の〈内なる光〉とは、意識の外にある事物の光である。それがまた、事物としての写真機を映し出す。事物の光が事物を見る。見ることを超えて見尽くそうとする。このような努力のなかにある時、写真機を見る写真機とは、自分を見尽くそうとするこの世界の意志や欲望そのものである。

『C.V.N.I.』で浮揚しているラヴェルのない缶詰は、光を放つ事物として在る。写真機はその光を制限して缶詰のイマージュを引き出すが、写真機という事物から放たれるもうひとつの光が、あるいは光の方向が、この缶詰の見えない内部に達しようとしている。ここで浮揚する缶詰は、床の上に浮いているようでもあり、地平線の彼方から飛来してきたもののようでもある。いずれにせよ、缶詰は世界のなかで光を放つひとつの事物であり、それは中枢的な視覚から完全に解かれているが故に、どんな大きさや重さとも無関係である。缶詰をしかじかの大きさや重さにするのは、私たちの身体にほかならない。この缶詰がラヴェルを必要としないのも同じ理由からである。記号を読むのは人間のほうであって、写真機ではない。よって、ラヴェルは被写体から消える。特定のサイズも重力も記号も消失させたこの被写体は、そのことによってこそまさにひとつの事物であり、光でありうる。しかし、それはどんな事物か。写真機から発する光が、この事物が包み込む異質の内部に入り込もうとしている。この光が、不気味な〈缶詰〉を再び出現させる。

『P.N.I.』に現われる〈顔〉も、中枢的な視覚が読み取るあらゆる要素を消失させている。写真機にとって、まず顔は光を発する事物以外の何ものでもないだろう。皮膚が形成する表情を記号のように読み取るのは私たちであって、写真機ではない。ここでは写真家の工夫は、被写体への直接の加工によって行なわれる。どこかの写真から切り抜かれた眼、鼻、口を粘土の肉の上に付着させ、それを撮影する。こうした加工は、機械による知覚の直接性を弱めてしまうだろうか。決して、そのようにはなっていない。むしろ、この加工は、写真機が顔を直接に知覚する上で、まるで不可欠な手続きでもあるかのように為されている。肖像写真を見る私たちが、皮膚が作る顔の記号性から逃れること、つまりは顔そのものに直に眼を向けることは、ほとんどできない。それ故に、『P.N.I.』はその皮膚を粘土の肉に置き替え、消失させるのである。

粘土の肉に植え込まれた被写体としての眼、鼻、口は、この世界のなかに実在する。いや、それらは社会的表情を作り出す皮膚から切り離され、いよいよ深く実在するようになるとさえ言える。粘土の肉はどうだろう。これは顔ではない、よってこれはこの写真の被写体であるというよりも、被写体の不在を示すものだろう。あるいは、その背景を作り出すものだと言ってもよい。粘土の肉が画面いっぱいに広がり、顔の輪郭が消失しているのはそのためである。『P.N.I.』における被写体への加工は、写真機が知覚する事物に何ひとつ付け加えているわけではない。むしろ、逆であろう。この加工は、写真の本性に従って世界から多量のイマージュを差し引く。だが、それだけではない。写真機から発する〈内なる光〉は、この加工に結び付き、実在する眼、鼻、口の向こう側に達しようとしている。では、これらの向こう側には何があるのか。

顔の皮膚が作り出す日常の表情に、私たちの眼は何を読むことを必要としているか。性格、底意、思惑、感情、いずれそんなところであろう。もちろん、すぐれた肖像画家は、はるかにそれ以上のものを、たとえばモデルの魂の固有の色合いを読んだ。オノデラユキが作り上げたこの異様な顔写真では、写真機はまったく何をも読んではいない。写真機が達しようとしているのは、誰の顔でもない顔の、その内側に詰まった生の暗黒であるように思われる。それはいいものでも悪いものでもない、ただラヴェルの剥がれた缶詰のような顔を、そこに顕われさせる根源のものである。写真機はそこから来る力に耐えて、震えている。


(立教大学教授/フランス思想)

*Translated by Phil Patton in Artforum volume 15, No.6 ( February 1977 ), pp.46-51.


, 2002. pp.114-121.

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Paris